● Summer sensation  ●

「あ〜……あつい」

 いつの間にか、蝉の鳴き声が毎日聞こえるようになり、強い日差しが照りつける。気付くと、もう8月に入っていた。
 大学が夏休みに入ったからといっても、学生のように休みがあるわけでなく、それこそ自分の研究を進めるべく忙しい日を過ごしている。
 今日は、たまたま午後から時間が空いていたため、気分転換に資料探しと新刊の購入を目的に、本屋に寄ってから帰ることにした。
 今回は、給料日恒例の大人買いではなく、たいした量ではないから手持ちで帰ろうと判断したのが失敗だった。おかげで、昼下がりの一番暑い時間に、重い本が入った紙袋を両手で持って帰るという最悪の事態に陥ってしまった。紙袋の取っ手が手に食い込み、何度も持ち方を変えながら歩く。背中は汗でワイシャツが張り付き、流れ出る汗を拭うことも出来ず不快感でイライラする。

 ちくしょう……暑さと荷物の重さでバテるなんて、いい加減かっこ悪すぎる。
 野分がいたら、絶対に「ヒロさんはかわいいですね」とか言って、さりげなく俺から荷物を奪うんだよな。
 ……いやいやいやいや、ちょっと待て。
 今のは、遠まわしに「野分がここにいてくれたらいいな」って思ったってことじゃねぇか!
 はぁ〜と溜息をひとつ。
 落ち着け、最近会ってないからそう思うだけだ。
 夏休みは学校も休みだし、外出先での事故も多発するから、小児科は特に忙しいんだ。通常勤務に加えて、急患だって多くなる。
――そういや、もう2週間近くちゃんと顔を会わせていない。


「ヒロさん、夏は海とか花火大会とか行きたいですね」
 ふと、野分の言った言葉を思い出した。
 デートらしいデートなんてあまりしたこともなかったから、その誘いはすごく嬉しかったのを覚えている。
「あ、あぁ……」
「浴衣着て花火見たいって、ヒロさん言ってたじゃないですか。あ、でも俺浴衣持ってないんで買わないと」
 満面の笑みで浮かれる、野分のこの言葉に腹を立てなければ、ちゃんと予定が立っていたのかもしれない。
「誰が浴衣で花火見たいなんて言った!? このボケが!」
 ちょっとくらい素直になって「行きたい」と言えば良かった。毎度のごとく、後の祭りだ。
 あ〜やめやめ、もう考えるのはよそう。余計に荷物が重く感じる。
 途中、通りかかりに設置してある自販機で飲み物を摂取し、気を取り直して家に向かう。


 結局、普段なら15分かからずに着く距離なのに、倍以上もかかってしまった。
 やっとの思いで玄関を開ければ、夏場の誰もいない部屋特有の外よりも篭った熱気が襲ってくる。外気よりも湿気も含んでいる分、じっとりとした空気が身体に纏わりついて気持ち悪くて適わない。
 そして、毎日この瞬間が憂鬱であることは言うまでもない。
 一緒に住んでいるはずの同居人が、今日も帰ってきていないことを実感してしまうからで。
 だから、毎日家に帰ってきてから一番初めにすることは、エアコンのスイッチを入れた後、汗でベタベタな体を冷たいシャワーで洗い流す。
 それできれいさっぱりすっきりして、淋しいなんて感情も一緒に流してしまえばいい。


 シャワーを浴びて部屋に戻る頃には、ちょうどエアコンが利き始めていて、ひんやりとした空気が少し気分を落ち着かせてくれる。
 腰に巻いたタオル一枚のみで、水分補給にと冷蔵庫に向かい、ワンタッチ式の扉を軽く押すと、心地よい冷気が全身を包んだ。
 ドアポケットに収納されたスポーツドリンクを取り出そうと伸ばそうとした時、正面の棚に、朝はなかったはずの皿が目に入った。
「なんだ……? りんご??」
 とりあえず、冷蔵庫から取り出してみるとラップの上にメモが置いてあるのを発見した。
 “ヒロさん、少しでもいいのでちゃんと食べてくださいね
  PS:パンダは難しいのでウサギで我慢してください。 野分“
 パンダ? ウサギ? 一体何のことやらと思いながら、ぺりっとラップを剥がして納得する。お皿の上には子供が喜ぶであろうウサギ型のりんごが並べられていた。
 野分のやつ……なんなんだよ、子ども扱いしやがって……!
 かぁっと、頭に血が上るが、楽しそうに林檎を剥く野分を想像してふと我に返る。
 ……俺がいない間に帰ってきてたのか。疲れてるだろうに、わざわざ俺のためにこんな面倒なことして……。
 ひとつ、お皿から林檎を掴み口に入れると、シャリっとした軽い音とみずみずしい甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。
「うまい……」
 そういえば、最近はめっきり食欲が落ちて、水分ばかり摂っていたっけ。
 あいつ、家にいなかったくせに、こういうこと分かるんだよな。
 やばい、ちょっと嬉しい……かも
 ひとつ口にしたら、ひとつ、またひとつと手が伸び、あっという間に1個分の林檎を完食してしまった。それだけ体が欲していたということを実感し、また、野分がいなかったら体調管理もままならない事実に苦笑する。
 忙しい野分が貴重な睡眠を削って、自分を気遣ってくれたことが嬉しくて仕方ないのに、会えないことの淋しさを嘆いているだけの自分が恥ずかしくなった。


「飯……作るかな」
 昨日まで、仕事から帰ってきても食欲なんておきなかったのに、今は何故だか急にお腹が減ってきた。そして、少しでも野分のためにしてやれることを考えたら、帰ってきたときに、温めて食べられる栄養のあるものを用意しておくことと、自分のことを心配させない生活をするくらいだ。
 自分はお手軽だと思う。
 さっきまで、あれだけ沈んでいた気持ちが急に軽くなって食欲も出るなんて、これじゃまるで、恋する……って一体何を考えているんだ、俺は。
 ぶんぶんとかぶりを振り、恥ずかしいことを考えてしまった自分を叱咤し、気を取り直して冷蔵庫の中の材料を確認する。




「豚肉とたまねぎとトマトと茄子……とカレールーと……」
 とりあえず、カレーくらいなら作れるだろうと、レシピをネットで検索したが、冷蔵庫の中には根菜類くらいしか入っておらず、買い物に出る羽目になった。
 一人暮らしの時はレトルトで食事を済ませてしまうことが多くて、ちゃんとした材料を買い込んだことなんてあまりなかった。陳列棚をきょろきょろと見回し、行ったり来たり店内をふらつく買い物に不慣れな自分が少し恥ずかしく思える。
 ひととおり必要なものをカゴに入れ、レジで順番待ちをしていると、レジの奥の梱包台の横で抽選会が行われているのが目に入った。
 2000円お買い上げ毎に抽選参加可で「特賞:熱海温泉旅行1泊2日ペアチケット」の他、「A賞:お米券」やら「B賞:ビール券」やら、「C賞:ガソリン2000円分」などなど、いかにもスーパー特有っぽい。
――旅行か。そういや、行ったことないな。でも万が一当たりでもしたら、ちょっとは素直になって、誘ってみるのもいいかもしれない。

 なんて、考えが通るほど世の中はうまく行くはずもなく。

「おめでとうございまーす。E賞の花火セットです」
 はいっ、と手際よく渡されたビニール袋には家庭用の手持ち花火が入っていた。
「は!?」
 俺は運がいいのか悪いのか……
 なんだって、このタイミングで花火なんだ。これを、野分と二人でやれってか!? 
 いやいやいや、無理無理無理。そんなクソ恥ずかしいことできるか!
「あ、あの……いいです。花火なんてできる環境に住んでいないし、忙しいので」
「えーでも折角だし、お兄さん彼女でも誘って一緒にやってあげたらいいじゃない!」
 ビニール袋を店員に突っ返そうとしても、受け取るつもりはないらしく、あろうことか面白がっている。
 くそばばぁ……いらねぇっつってんだから受け取れよ!!
「いやいや、彼女なんていませんし」
 って、俺、何答えてんだ〜!!
「またまたー、顔真っ赤じゃないー」
 ぬぁーー! ぶっ殺す!!!


「じゃぁ、これ俺がもらってもいいですか?」
 聞き覚えのある声が背後からした瞬間、持っていたビニール袋が手から掻っ攫われた。
「のっ!!! 野分!?」
「これ、ありがたくいただきますね。さ、ヒロさん行きましょうか」
 野分は、丁寧に店員にお辞儀をし、俺の手を引いてそそくさと出口に向かう。


「あっははははは」
 店を出たと同時に突然野分が声を上げて笑い出した。
「な、何笑って……!!」
「いや、ヒロさんがかわいいな、と思って」
「かっ、かわっ……ばかにしてんのか!! お前!!」
 恥ずかしい、恥ずかしすぎる……! あんな場面を見られた挙句に、久しぶりに会ったのに笑われて、かわいいだなんて!
「〜〜〜 ……っ 帰る! 」
 夕方のスーパー前は人通りも多く、TPOはわきまえているつもりなのだ。
 文句の一つ(どころじゃないが)でも言ってやりたい気持ちを抑えて、その場から足早に離れる。恥ずかしくて、いてもたってもいられないという方が正しい気がするが。
「ヒロさん! ヒロさんってば! 置いていかないでくださいよー」
 後ろから、野分の軽快な足音とうかれた声が近づいてくる。
 気に入らない! ……のに少し嬉しく思う自分はやっぱりどうかしてる。
「だって、久しぶりにヒロさんに会えたと思ったら、あんな場面に出くわしてしまったもので」
 コンパスの差か、あっという間に追いつかれ、野分は自然に横を歩く。その気配を右半身で感じ、ちらっと横目で視線をやると、申し訳なさそうに謝ってはいるが、明らかに顔が緩んでいる野分と目が合う。
 たったそれだけ、それだけで体温が上がる。
「……! つーか、お前なんでここにいんの……朝は帰ってきてたみたいだけど、また病院に行ったんじゃないのか?」
「はい。今日は休みだったはずなんですけど、呼び出されてしまって。でも落ち着いたので帰れることになりました。明日の夜までお休みもいただいたんですよ」
「そ、そうか……」
「で、帰りがけにスーパーの外からヒロさんらしき人が見えたので、気になって。でも本当はヒロさんがこんな所にいる筈ないと思ってたから、ついに幻覚まで見えたかと思っちゃいました」
「お前、しゃべり過ぎ。ちょっと落ち着けよ」
「すいません、でも嬉しくて。で、ヒロさんはスーパーで何を買われてたんですか?」
 きた……!
「や、あの、急にだな、カ、カレーが喰いたくなって……そう辛いやつ! レトルトだと、あんまり辛くねーし、あと……そう! ナスが入ったカレーが無性に食べたくなって!」
 あぁぁ、俺何言ってんだ…… まさかこんな段階でばれるなんて思ってなかったから、何て言おうか全く考えてなかった。
「で、材料買ったんですか? ヒロさんが自分で作るために?」
「あぁ〜っ! あと、夏バテ対策ってやつ? 辛いもん喰うといいっていうじゃん? 作ったやつ冷凍しとけば、お前も帰ってきたときに食えるだろうし、あ、別に今朝のリンゴのお返しとかっていうんじゃねーからな! 」
 ったく、しゃべり過ぎなのはどっちだ……ちくしょう……
 野分の表情を伺おうと目線を横にやると、さっきまでにこにこと笑っていた野分が、少し驚いて目を丸くしている。
 その表情を見て、失敗したと思った。

「ヒロさんが俺の為に? どうしよう……俺、めちゃくちゃ嬉しいんですけど……」
「ちょっ、ちがうって! 俺が食うやつのついでだからで、お前の為とかそんなんじゃねー……」
 素直に喜んでもらえることは分かっていた。それを一番期待していたくせに、やっぱり直接顔を見て話すと、なんでこうなってしまうのか。
「はい、分かってます。あ、荷物、俺持ちますね」
 そう言うと、荷物を強引に奪いやがった。
 へらへらと口元緩ませて、そんな嬉しそうな表情すんなよ。
 野分は俺を分かっている。いくら悪態をついても、口にすることのない本当の気持ちを汲み取り強引に受け取る。
 それが当然だと思っている自分は、野分に甘えていることになるのだと思う。言い過ぎたと、後悔することだって多々あった。


「りんご……」
「え?」
 今だったら、さらっと言えてしまうような気がした。
「りんご、うまかったよ。あ、りがとう……」
「ヒロさんはやっぱり可愛いです」
 思ったことをさらりと言う直球すぎる性格には、6年経っているにも関わらず未だに慣れなくて動揺させられる。けれど、やはりかわいいという言葉には納得がいかない。
「だーかーら! お前それはやめれ! それにウサギ型りんごもやめれ! 何が楽しくていい大人がウサギ型りんごを食さねばならんのだ! 何もかも普通でいいんだ! ったく……」
「俺は普通のつもりなんですけど、あ、でもヒロさんへの愛は普通じゃ足りないです!」
 思わず、足がもつれて転びそうになった。やっぱりこいつはバカだ。だが、そんなバカに翻弄されているのは俺で。
 そういえば、平常心を保ったまま会話ができたことがあっただろうか。いや、多分ない。
 想定外の行動と言葉でいつも振り回されている。あまりにも強引だから、驚かされるのはいつものことだし、理解できなくて腹が立つときもあるけど、結局は許してしまう。
 なんだかんだと言いながら、野分のこういうところが好き……なんだと思う。

「……っ!! 言ってろ、バカ……」
 恥ずかしくて、とてもじゃないけど、今横を歩いている野分の顔を見ることができない。
 けど、どんな顔をして俺を見ているのか分かる。お前の言葉ひとつで慌てふためいて余裕のない俺を、余裕たっぷりの笑顔で見ているんだ。むかつく……けど、この瞬間がすごく堪らなく快感で。
「カレー楽しみにしてます。俺、うんと辛いのがいいです」
「……分かった。お前の分だけカレーの上にオプションで、たっぷり島とうがらしぶっかけてやるよ」
「えぇっ、ひどい!!」
 そして、たまに精神的に上に立てるこの瞬間もまた、快感なのである。
 これが常日頃、野分に丸め込まれてしまう俺のささやかな復讐でもあったりする。




 食事を終えた後、片付けは自分がやるから、その間にシャワーをどうぞと、やけに嬉しそうに勧めてきた野分。
 食事を用意してやったことが、浮かれてる原因かと思っていた。
 しかし、これが目的だったとは。

「野分〜〜〜〜!! なんなんだ、これは!!! 」
 シャワーを浴び、脱衣所で身体を拭いているときに、異変に気付いた。
 脱衣所に用意してあった筈のパジャマがない。
 代わりに置いてあったのは、浴衣。
 今すぐにでも殴りかかりたい気持ちを抑えて、とりあえず下着だけ身に着ける。そして、脱衣所の扉を勢いよく開け、50m走の如く全力疾走で野分の部屋に駆け込んだ。
「あ、ヒロさん。浴衣の着付けって分かりますか? なんか、どうしても帯がしっくりこなくて」
「は? お前、何やってんの?」
 部屋を開けて目に入ってきたのは、野分が今まさに浴衣を着ている姿であった。
「つーか、これ何なんだよ! 人の着替え勝手にすり替えやがって!」
「え、だって花火もらったじゃないですか。だから、浴衣着てやりましょう」

 ……頭がくらりとする。
 怒鳴り込みにきたのに、想定外の事態にすっかり怒鳴るタイミングを失ってしまった。
「だからって、なんで都合よく浴衣が用意されてるんですか……」
 あまりの用意周到さに、怒りを通り越して呆れ返る。
 こいつは、確か風呂のときもそうだった。わざわざ、新しい桶だのシャンプーだのアヒルだの買ってきて、残業して遅くなった俺を玄関で待ち伏せしていた。
「2週間くらい前、約束したじゃないですか。だから俺、買っておいたんです」
「はぁ!? 約束なんてした覚えねーよ!」
「しましたよ。花火見に行きましょうって言ったらヒロさん頷いてくれたじゃないですか」
 は? ……ちょっと待て…… もしかして、こいつはあの時の事を言ってるのか?

 “ヒロさん、夏は海とか花火大会とか行きたいですね”
 “あ、あぁ……”
 “浴衣着て花火見たいって、ヒロさん言ってたじゃないですか。あ、でも俺浴衣持ってないんで買わないと”
 “誰が浴衣で花火見たいなんて言った!? このボケが! ”

 ふいに、記憶がフラッシュバックする。今日の昼間、うっかり感傷的になって思い出してしまったことも。
 あぁぁ…… 言った、確かに言った……だが、しかし……
「あ、れ、の、どこが約束なんだ! 俺は嫌だと言ったんだ!」
「でも……俺すごく楽しみにしてたんですよ……あまりヒロさんとお休み合わないし、都合よく花火大会がある日に休めるなんて思ってなかったから、気分だけでもと思って浴衣買ったんです」
「え……」
「だけど、今日、偶然にもお休みになって、ヒロさんが花火貰って……だから今日しかないと思って」
 まるで、叱られている子供のようにうつむいて、明らかに落胆している様子が伺える。
 な、何なんだよっ! あからさまにしょんぼりしてんじゃねーよ! これじゃ俺が悪いことしてるみたいじゃねーかよ!
「ごめんなさい、調子に乗りすぎました。着替えます。ヒロさんも着替えてください。そんな格好でいられたら俺の理性が持ちませんし……」
 そう言いながら、はぁっと軽く溜息を吐き、しょげた顔で浴衣を脱ごうと帯に手をかけた。
「おい……野分」
 何だその態度は! また俺が傷付けたみたいな雰囲気じゃねぇか! 理性が持たない? ふざけんなよ……いつもだったら、そんなこと言う前に手出してくるくせに! あぁぁぁっ! もう!

「お前、自分で着れないくせに浴衣なんて買ってくるんじゃねーよ。バーカ」
 精一杯の悪態をついてから、ばさっと手に持っている生地を広げ肩に羽織る。
「え? ヒロさん……??」
 野分が驚いた顔でこっちを見ている。
 しかし、あえて気に留めず、無言で手早く浴衣を着た。
「いいか! こうやって着るんだよ 分かったか!」
 開き直った俺は、何を偉そうに自慢しているんだか。
「えっ? あの……」
 そして、完全に困惑している様子の野分の前までずかずかと歩いて近寄り、睨み付けてやる。
「おい! 脱げ!」
「えっ?」
「いいから全部脱げっつってんだろ! ったく、なんなんだ、このめちゃくちゃな着方は! 襟も開けすぎだ、だらしない」
 状況が飲み込めず、戸惑う野分から、強引に浴衣を脱がせて奪い、襟を持って広げる。
「ほら、袖通せ」
 背中側から浴衣を羽織らせて、肩の位置と浴衣の中心を見ながら調節する。
「ヒロさん、何で……」
「気が変わったんだよ! 浴衣なんて久しぶりだし、たまにはと思ってだな……おいっ姿勢を崩すな、ずれるから真っ直ぐ前を見てろ」
「は、はい!」

 されるがまま、大人しく従っている野分が、まるで手のかかる大きい子供みたいで、少し可笑しくなってしまう。それを気付かれないように、口元を引き締めて、真正面に立ち、襟の端を持って背中の縫い目を中心に合わせる。手早く上前を重ね、腰紐で固定する。
「ヒロさん、着付けずいぶん慣れていらっしゃるんですね」
「あー、家がそういうとこだったんだ。母親は、毎日着物着てたし、俺も和服を着る機会が一般家庭より多かったからな。自然と覚えた」
「へぇ……そうだったんですか」

 後ろに回り、飾り結び部分に必要な長さ30cm程の帯を2つに折り、左手で押さえつつ、空いた右手で、帯を野分の腰に回していく。
「ヒ、ヒロさんっ!」
 ちょうど、抱きつくような姿勢で。
「おい、勘違いするなよ! お前、でかくて着せづらいんだよ!」
 そういえば、人に着せるなんてしたことないから、普通の人がどんなもんかは知らない。
 しかし、こいつが本当にいい体型をしていることは確かだ。でけーし、筋肉がしっかりついているから、すごい似合っている。あぁ、本当にムカつく。
 そして、巻き終わった帯を、ぎゅっと引っ張ってやると、うっと小さな呻き声が漏れた。
「ヒロさん、く……苦しいです」
 少しばかりきつめに結んでやったのは、俺を怒らせた仕返しだ。ざまーみろ。……と、こんな些細な事でしか反撃しきない自分が情けない。
「浴衣はそういうモンなんだよ! どうせ少しずつ緩んでくるんだし」
 結び目を背中の中心から少しずれた位置に作って、終了だ。

「ん、できたぞ」
 ぽんっと野分の背中を叩いて、着付けが終わったことを教えてやる。そして、着付けで少し疲れた俺は、浴衣が崩れないように、野分のベッドに腰を下ろした。
「わー、すごいです! 嬉しいです! ヒロさん、ありがとうございます」
 目をきらきら輝かせて、着付けてやった浴衣姿を確認しようとする姿が、本当に子供みたいで、不覚にもかわいいと思ってしまう。でかいくせに。
「お前、浴衣着たことねーの?」
「はい、初めてです。どうですか? 似合ってますか」
 まぁ、男が浴衣着る機会なんてそうそうないだろうとは思っていたが、こいつの場合、生い立ちも複雑だし、今までは独占欲や興味が薄かったと言ってたから、というのもある気がする。
 惚気るつもりはないが、今まで興味のなかったことが、俺と一緒にいることで、楽しく思ってもらえることが正直に嬉しい。……なんて、恥ずかしいことは口が裂けても言わないけどな。

「あー……いーんじゃねーの? つか、俺より似合ってると思うけど」
 濃紺地に、白で鯉柄と水飛沫が描かれた、迫力のある独特の柄を着こなせるのは、やはりこの身長と体格あってこそだと思う。店員に勧められて買ったんだろう、ということは容易に想像がつく。
「本当ですか? でも、絶対にヒロさんの方が似合っています。やっぱり、その浴衣にして良かったです! 普段のヒロさんの何倍もきれいで色っぽく見えます」
 野分が、俺の為にと用意した浴衣は、涼蒼地に濃紺のよろけ桐柄がデザインされたシンプルなデザインであり、俺好みであることは間違いない。しかし、その最後の言葉はいただけない。
「だっ……! そっ、そういうことを言うな!」
「どうしてですか? 本当のことなのに」
「お、お前は恥ずかしい台詞をぺらぺらしゃべりすぎなんだよ! きれいとか言われて嬉しいわけないだろっ! ボケカス!」
「あ、すみません、じゃぁ、やっぱりヒロさんはかわいいです」
「――っ! それもちっがーう!」
 かっとなって、気付いたらちょうど手元にあった枕を掴んで、野分に投げつけていた。
 ぼすっ! っと野分の顔にクリーンヒット。あ、怒りに任せて投げた割にナイスコントロールじゃん。
 そう、俺は、モノにあたる癖があるのだ。
「ヒロさんっ! あんまり暴れると浴衣崩れちゃいますよ!」
 投げつけられた枕のことなんてお構いなしに浴衣の心配かよ! ますますむかつく。

「知るかー! もう脱いでやるっ」
「ヒロさん!」
 帯に手を掛けた瞬間、手首を掴まれ、身体の重心が前に引っ張られた。
「そういうこと、すればするほどかわいいので、逆効果です」
 そして、バランスを崩した身体を抱きとめられ、一瞬の隙をついて唇を塞がれた。
「……んっぅ……」
 噛み付くように、深く押し当てられる唇。久しぶりの感覚に、背筋がぞくりとする。


 しかし、それは触れただけで、ゆっくりと離された。
 ……!?

「それに、脱ぐなら俺が脱がせましょうか?」


 満悦の様子で、目を細めて微笑むその顔の後ろに、何か黒い物が見える気がする。今こいつの頭の中は、かなりの高確率で、浴衣プレイとか考えてるに違いない。

――っッ! 断固拒否だ!

 そこまで、こいつの思うとおりに事を運ぶのは、俺のプライドが許さない。

「い、いやいやいやっ……遠慮しておく。そうだ花火! 花火するんだろ!?」
 興味が逸れるものに話題を変えなくては、と瞬時で判断したら、ついうっかり口が滑ってしまった。
 野分は、待ってましたとばかりに、目を輝かせていた。

 ……やってしまった。

「はいっ!!」
 そして、一瞬で花が咲いたかのような笑顔になる。

――っ!

 うまく誘導された気がして癪に障るが、この屈託のない笑顔を向けられると、つい容認してしまう自分が情けない。




 結局、男二人で浴衣着て家庭用花火をするという、なんとも恥ずかしい事をした挙句、調子に乗った野分に流されて、浴衣のまま事に及んでしまう、年上の威厳の欠片すら見せることができない俺、上條弘樹の恋人と過ごす最悪な一日であった。

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